#1 Beyond the Common Sense

常識にとらわれず
ユニークな発想で越えてゆく

ピルボックスジャパン株式会社

代表取締役社長 栖原 徹 氏

激動の時代。さまざまな業種で商品の販売チャネルが見直される中、越境ECが注目を浴びている。2019年の国別BtoC-EC市場規模で世界一を誇るのは中国だ。この巨大市場に乗り込み、売り上げを伸ばし続けているのが、健康食品・サプリメントの開発と販売を手がけるピルボックスジャパンである。2020年、ピルボックスジャパンは将来の株式上場を目指して、クレアシオン・キャピタルと資本提携の合意に至った。

この記事では、二極化が進む世の中で、益々勢いを増すピルボックスジャパンの代表取締役社長 栖原徹 氏のBeyond the Storyに迫る。ビジネスや人生で乗り越えてきたもの、行動哲学とは何か、これまでの軌跡を紐解いていく。そして、栖原社長が考える壁の乗り越え方「Beyond the Common Sense」に迫る。


米軍基地の野球チームとの交流戦

野球雑誌も注目するエースピッチャーとして活躍

理不尽には屈しない。納得してから行動する。

栖原社長は、どのような幼少時代を過ごされましたか?

ちょっとませていましたね。洋服は好きでしたし、小学校の高学年でデパートの上にある食堂に1人で行っていました。少年野球をしていたのですが、地元の横須賀大会で優勝すると神奈川県の大会に行ける。神奈川県の大会で勝ち上がると、関東大会に行ける。そのように、外に行けるチャンスを掴む感覚が野球を通じて形成された気がしますね。

思春期で印象に残っているエピソードはありますか?

当時、高校の野球部は坊主が当たり前だったのですが、僕は坊主が本当に嫌で。なぜ坊主なのかという理由が、すごく理不尽だと思っていました。監督に聞いても答えはないわけです。それがすごく疑問で、自分たちが最上級生になった時に、監督に掛け合って坊主を廃止にしました。当時の高校野球界を考えると、かなり異端だったのではないでしょうか。

栖原社長が提案されて?

はい。海外だと絶対あり得ない。坊主が条件だったら「僕はやりません」となります。理由に答えられないと根付かないですよね。それは今でも不思議です。何かに納得しないと動かない。世の中の小さな理不尽にはすごく敏感かもしれません。

外資系企業1社目ワーナーランバートのグアム研修

ペプシコーラ社で英語とマーケティングに奮闘していた頃

外資系で直面した、英語でマーケティングの仕事をする壁。

大学時代はどのように過ごされましたか?

僕は大学を2年で中退して起業しました。ハウスクリーニングのフランチャイズなのですが、ニーズがなくて1年半でやめて、外資系のガムやひげ剃りブランドの日本法人に入社しました。最初は営業だったのですが、広告や商品企画を担当しているマーケティングの仕事が楽しそうで部門移動したいと思った。だけれども、僕は英語が全くできなかったので、5年在籍したこの会社では異動できませんでした。

次に転職した外資系企業で、マーケティングの仕事をしたいと猛烈にアピールして、1年半ぐらい経った時に念願叶ってマーケティング部署に行けたのです。ただ、今度は行ったはいいけれども何もできない。営業から見ていたマーケティングと、実際にマーケティング側になった時の仕事は違った。さらに、英語を使って外資で生きるというのは、ものすごくストレスでした。日本語だったらそんなに負けていなくても、英語というファクターが入ると留学経験者などにコミュニケーションで負けてしまう…。実は、一時は営業に戻ろうかという葛藤もあったほどです。それでも何とか2年、3年耐えながらやっていると英語の壁を突破できた実感があって、これでやっていけるぞ!と思った時が一番のターニングポイントです。

その時に、一定のトレーニングと経験を積んで英語が使えるようになったことが、ピルボックスジャパンで海外ブランドの総代理店を3ブランド担当する発想にもつながっているので、今も非常に役立っています。

他に、今も影響を受けていることはございますか?

当時、初めてマーケティングに引っ張ってくれた上司からは、非常に大きな影響を受けました。僕よりも9歳上ですが、当時35歳ぐらいでマーケティングのトップとして入ってきて、熱く、格好良くて。その方が親身にマーケティングトレーニングをしてくれて、4年半ぐらい一緒にいたのですが、まさに自分のベンチマークとなる存在でした。後に世界クラスで活躍されて、コカ・コーラ、資生堂の社長を歴任している魚谷さんという方です。

ピンチの時こそ守りに入らず、自ら欲して行動する。

ご自身で限界の突破を感じたエピソードを教えてください。

ピルボックスジャパンを起業して3~4年ぐらいの時に、キャッシュフローが結構苦しく、会社を存続できるかどうかという危機がありました。乗り切った今から振り返ると、一番限界を感じた時でした。われわれのビジネスは物を作っているほうに払うお金が先で、今度は物を売って回収するまでが長いわけです。商品がある程度売れ出せばいいのですが、売れるものが出ないと在庫が増えてしまって、資金繰りが当時はてとも苦しかった。

その当時、どうやって栖原社長は乗り越えられたのですか。

われわれメーカーは新製品をどんどん出していく。そういう活力がなくなると企業はしぼんでしまうので、駄目ならばしょうがない!という感じで出していく。むしろ攻めることで、危機を乗り越えられました。やはり、何かを自分から欲して動くことによって、道が開けてくることが多いと感じます。待ったり守りに入ると、逆にシュリンクしていく。とにかく欲して動いたほうが、結果的にいい方向へつながっていくことは、どのシーンを振り返ってもすごく思いますね。要は、待っているより一歩進んでノックしてみる。そして扉が開いたら、今度は扉が開いたところから、そこにある中のどれが欲しいんだ?ということは考えますが、まずは動かないと。

正解を先読みすることも大切ですが、それよりも自分で欲して1歩を踏み出すという。

そうです。たくさんある情報の中から、自分で選んで決めて、その道を一歩前に進む。ただ、チョイスが多過ぎて迷う場合は、そこに自分が欲しているものがないということ。その場合は、「そこに行きたい!」と欲する自分が出てくるまで、チョイスをさらに広げてみることが大切ですね。

こんなに可能性のある時代はない。前例にとらわれないユニークさで価値を生んでいく。

仕事において、栖原社長が大切にされていることはありますか?

やはり前例にとらわれず、前に進んでいくことです。あとは、やはりグローバルの視点を持ちながら日本の市場に合わせていく「Think global, Act local」という考え方ですよね。成功している人は、非常にグローバルな視点を持ちながら、日本的なアクションができている。

ピルボックスジャパンの今後についてお聞かせください。

おそらく今までピルボックスジャパンは栖原商店だったわけです。そのままでは企業活力は衰え企業の成長は止まってしまうと思っていたので、栖原商店からピルボックスジャパンをよりパブリックな会社にしていきたい。一つの試金石は上場です。そして、僕がいなくなってもピルボックスジャパンは一つの有機体として未来永劫存続し、社会にとって非常にバリューがあるような会社だったらいいなと思います。得意先などから、創業から面白いことをやるねと言われてきたので、ピリリとしたエッジの利いたユニークな会社になっていってほしいです。

前例にとらわれないがキーワードですね。

そうですね。やはり新しいこと、ボールを投げ続ける企業であってほしい。

最後に、ご覧になられている方にメッセージをお願いします。

とにかく今は、可能性がすごくある時代だと僕は思っています。いい時代だと思いますよ。ビジネスの環境は10年前に比べても、ファンドさんの協力、M&Aで一つの企業体として息を吹き返したり、良さを見出してもらって大きくなるということもあるので、選択肢を広くしながら方向性を強く持っていってほしいです。 今だったらECなどいろいろなことを投資額は少なく、すぐできるわけですよね。こんなにオポチュニティ、可能性のある時代はないと思います。いい時代なので、いいチョイスをしてください。可能性は無限大です。

栖原 徹(すはら とおる)/ ピルボックスジャパン株式会社 代表取締役社長
1963年生まれ。83年に国士舘大学政経学部を中退し、ハウスクリーニングのフランチャイズ店オーナーとして独立。その後、外資系の食品メーカーなどでマーケティングの経験を積み、米国発のサプリメント会社で先進の商品にも触れ、マーケティングとサプリメントに関して集積したナレッジを生かしきるべく、02年にピルボックスジャパンを設立